昭和43年06月17日 夜の御理解
形に現われて来るおかげは誰しもおかげと分かり、信心さして貰いよるとおかげと、けれども本当の信心が段々分かって行くと言う事は、目に見えないおかげ形に現われて来ないおかげ。そういうおかげをおかげをおかげとこう、自分の心に頂きとめれると言う事が本当の信心を頂いてきたと言う事でなかろうか。形の上だけにしかおかげが分からないと、その形のおかげの事が今度はおかげではない様なふうに現われて来ると。
所謂神の綱が切れたとこう、ね。もう神様からおかげが頂けられん様に成ったとこう。「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ氏子から切るな。」御理解17節にそうあります、ね。ですから私共がそういうふうに、ね、おかげの頂けん様に成ったと言う様な、その信心の違いというかね、そういう様なものを感じやすい、その為にもどうしても信心を愈々進めさしてもろうて、ね。
目に見えるおかげよりもむしろ、目に見えないおかげを、分からして貰える信心を、頂いていかなければならん。今日昼の1時の御祈念の後に、御神誡の二節のところ、第二のところを頂きましたですね。天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」と。それは地の恩が分かれば、天の恩は自ずと分かるという、一言の御理解であります。天の恩は分かっても地の恩は分からん。
それはむしろ、地は忌み土と穢れたものと、言った様な観念で頂いとったんですけれども、教祖はそこんところを大地のご恩徳を説かれてあります、ね。それにしても大地のご恩徳が分かれば、天の恩は自ずと分かる。その大地の恩というのが、私には目に見えないところ。またはおかげではないと思うこと、ね。穢れたものと忌み土とこういうふうに、まあ大地の事を言ったわけですけども。
本当に信心しよってどうしてこの様な事がと言った様な事でも、ね、それをおかげと分かる。と言う事が大切。大地の徳を分かってきた人の頂き方でなかろうかとこう思うんです。その大地のお徳を分からして頂けた時、天のおかげは自ずと分かる、ね。そこに限りない天恵地理とこう、ね。天の恵み地の理を受ける事が出来る、ね。私達金光様の信心をさして頂いた者の中には沢山そんな人があって。
信心を疎かにしたりやめたりする人があるのは、ね、「神の綱が切れたと言うが、神からは切らぬ、氏子から切るな」と仰せられるように、もう神の綱が切れたと。金光様の信心してもおかげは頂けないようなところから信心が疎かになり、信心をやめていくのです、ね。そういう、言うならこれは悲しいこと。神様も悲しい思いをなさることであろう。そういう神様を悲しい思いにさせんですむ。
自分も悲しい思いをせんで済むおかげを頂くためにもどうでも、ね、目に見えるおかげより目に見えぬおかげを、ね、分からして頂けれる信心是は信心自分の心で是と目に見えない所であるから、もう是と言うわけにはいかんのだけれども、自分の心に考えてみれば考えてみるほどおかげ頂いたなと言う事。今朝1時何分ですか田主丸のむつやのおばあちゃんがお国替えのおかげを頂かれて、もう91歳であった、ね。
本当に子供さんいわゆる田代さんやら、石井きよかさんあたりいわゆる娘さんであるところの、いわゆる子供さんが先に亡くなられた訳だけれども、言わば孫の手に掛って亡くなられたわけです、ね。世間ではそれを本当にまあ不本意な事だとこう思う、ね。やはり、子供の手にかかってと。言うならばまあ嫁に死に水しとってもろうてと言った様なふうに申しますけれども、ね。
むつやのおばあちゃんの場合には、孫の手に掛って亡くなられた。孫娘の手に掛って孫の信司さんと、陽子さんがまあ家を取ったわけなんですけれども。本当に不本意ながらとこう思うけれどもここにはね、神様のご都合があるいわゆる神様は本音で働いて下さる。今日もその事を話した事です。もう考えてみれば考えて見る程に、例えばむつや一軒の事を考えてみてもああなってこうなったと。
お母さん達が早死にをされたと言った様な事でも、こういうおかげの頂けれる為にこうあったのであって、今度のおばあちゃんが亡くなられたと言った様な事でもその中にある。もう本当にそれはもう大変な問題もあったけれどもその問題が、ね、ああでなかったならばこういうおかげにはならなかったと言う事になっておった所から思うてみてですね、神様が氏子本意におかげを受けて氏子本意と言う事は、ね。
神様も私共の願いも思いもしないような眼に見えない所の働きがあっておったから、今日のむつやのおかげになっておると言う事を私は思うんです。ですからそこを例えば信司さんでも陽子さんでも、今も陽子さんが出てまいりまして、明日お葬式がありますのでその事のお届けに出て参りましたら、もう先生もう何からかにまで万事万端の上にご都合お繰り合わせを頂いてと言うておりますように、ね。本当に目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多い仰る、目に見えぬおかげを頂かせてもらうという、ね、それは自分の心